ICT技術の今と昔 ~その2「1970年代後半」~

2017.03.17 岡田定晴
 枯葉(作曲:Amacha)

 私が社会人になって仕事を始めたのは、昭和50年(1975年)です。初めて親元を離れ、人口30万人くらいの地方都市で独身生活を始め、 これから思いっきり仕事をしてやろうとワクワクしていました。街を歩いていると、岩崎宏美、山口百恵、桜田淳子、尾崎紀世彦、 野口五郎、布施明、子門真人など、当時10代から20代のアイドル歌手の歌声が流れていました。

 既にインテルのi4004(世界初のマイクロコンピュータ、日本企業がプログラム制御方式の高級電卓のために必要なチップとして、 インテルと共同開発したもの。日本の嶋正利氏が開発に関わった。[Wikipedia参照])は、4年も前に誕生していました。 大学では、真空管やトランジスタ回路は学びましたが、集積回路については、LSIに関する数行の記述があった程度です。 また論理回路の基礎は学びましたが、論理ICやLSIなどの実践的な教育はありませんでした。

 これから述べることは、装置の設計や開発を専門とする者としてではなく、将来のために先行する技術を獲得しようと 取り組んでいた個人としての経験に基づく「1970年代後半」です。



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 仕事で接する機器には、トランジスタ、ワイヤスプリング・リレー、真空管、機械的な機構に頼った連動スイッチ、 表示用の小型の豆電球、ニキシー管(数字などの情報を表示する放電管)、電気磁気学に基づく機械的な電流計や電圧計、 ヒューズ、モーターや回転機構による装置などが使われていました。当時の先端技術である論理ICやマイクロコンピュータは、 未だ導入されていませんでした。装置にソフトウェアが組み込まれていない時代でしたから、故障への対応も比較的簡単でした。 故障原因は、接点の接触不良、半田付け不良、真空管の故障など単純明快なものでした。

通信販売 論理回路  私は、信号の大小・強弱で動作するアナログ回路より、「0」か「1」で論理的に動く回路に興味がありました。 本を買って勉強し、CQ出版社の「トランジスタ技術」(現在でも”役にたつエレクトロニクスの総合誌”として出版されている)の巻末の広告を見て、 秋葉原の亜土電子工業や若松通商に、論理ICやLSI、表示用の7セグメントLED、プリント基板・エッチング液、穴あけ用の小型ドリル、半田こて、 半田などを注文し、基本的な論理回路をいくつも組み上げて技術を習得しました。

 少しずつ難しい回路に挑戦していた頃、先輩から声がかかりました。「ある装置を開発するために論理回路を設計した。一緒に完成させてほしい。」と頼まれ、 先輩が設計した回路図を読んで動作を理解し、部品を受け取って組み立て、動作を確認していきました。二人で組み上げて完成しましたが、 確実に動作していたものを運用現場に設置した時に動かなくなりました。運用開始のタイムリミット30分前に、「+5Vの直流電源を供給していたケーブルが細く長く、 回路基板に到達するまでに電圧が降下して回路が動作しなかった。」と判明しました。電源供給ケーブルを太くして電圧降下を防いで運用開始に間に合いました。

 自分よりも高い技術を持つ人と一緒に仕事をすることが、技術習得の近道であることを実感しました。

 当時、「トランジスタ技術」などの専門誌には、フェアチャイルド、テキサスインスツルメンツ、ナショナルセミコンダクター、 インテルなどのアメリカの半導体メーカーの広告が掲載され、送料の切手を送れば「製品のハンドブック(技術資料)」を無料で送る旨が記されていました。 お金を持たず、技術を習得しようとする若者には嬉しい広告でした。実際に届いた技術資料を見て満足するとともに、このようなものを創り出すアメリカの力を感じたものでした。

 論理回路を習得したころ、「これからは、目的に合わせて論理回路を設計をし配線パターンを作成し製作する時代ではなく、回路は全く同じもので、 ソフトウェアを組み込んで目的に合ったものをつくる時代だ」と感じるようになりました。

CPUボード コンピュータラック マイクロコンピュータ基礎技術マニュアル  ハードウェアを組み立てることに疲れ、ソフトウェアに魅力を感じたのでしょうか。昭和51年末~52年(1976~77)ころ、 横井与次郎 著 【マイクロコンピュータ 基礎技術マニュアル】を読み、CPU、水晶発振子、PIO、スタティックメモリ、スナップスイッチ、 7セグメントLEDなどの部品を買って、ラッピングツールを使って配線して8ビットのマイクロコンピュータを完成させました。 8個のスナップスイッチで8ビットデータをつくり、パチパチと機械語プログラムを入力し、全て入れ終わった段階で、プログラムを動かしました。 ただ、プログラムをRAM(Random Access Memory:データの消去や書換が可能なメモリー)上に書き込むため、プログラムに間違いがあり暴走すると、プログラム自体が書き換えられてしまうことがあり、 原因を考えて修正したプログラムをすべて入れ直すこともよくありました。紫外線で記録内容が消去できるタイプのROMや、 8インチフロッピーディスクや、磁気テープ【MT2(ティアック)】も入手可能でしたが、自分には高価なものでした。 従って、スイッチ8個で8ビットの数値を作り、書き込みスイッチでデータを書き込むことを繰り返してプログラムを入力していたのです。

時間減算フローチャート 時間減算プログラム  このころ、自作のマイクロコンピュータで実行していたことは、以下のようなものです。 時間減算プログラム(例:23分10秒 - 5分20秒 = 17分50秒)を完成させ、フローチャートやコードを清書して技術資料としました。 また、マンマシンインターフェース改善のために、テンキー入力装置、CRTディスプレイ、カセットテープレコーダへのデータの記録再生装置、 中古IBMセレクトリックタイプライターのI/O化など、悪戦苦闘していました。1KbitのスタティックRAMを32個集めて4KbyteのRAMボードを製作しましたが、 ラッピングで配線して完成させるのに1週間もかかりました。コストも確か2~3万円かかりました。基板裏面は、電子回路というより編み物そのものでした。 4Mbyteでも4Gbyteでもありません。4Kbyteです。当時の個人の力・資金力と技術では、いくら努力しても、その世界を知らない人に価値を認められる程のことは 到底できるものではなかったのです。

4KByteメモリーボード表面 4KByteメモリーボード裏面  当時、ASCIIやI/Oなど、マイクロコンピュータの雑誌が発行されました。また、メーカーの中堅技術者が書いたものと思われる「マイクロコンピュータの詳しい解説書」が、 実は学生が書いたものであったということもありました。20代の若い人たちが新しい時代をリードしているのだと感じました。

 同じ頃、ワンボードマイコンがNECや日立から売り出され、マイコンブームが起きました。先述したプログラムは、仕事に持ち込みましたが、 6800派と8080派で対立が起きました。機械語やアセンブラは、CPUの命令体系そのものなので、開発した成果を他方のコンピュータが受け付けません。 どちらを採用するかで、開発したものが全く役に立たなくなるのです。このため、自分を守るために対立を生んだのです。 高級言語が走る汎用機の経験を持つ上司は、コンピュータは機種が違っても同じだと言い張りました。

住んでいた地方都市で、マイクロコンピュータに取り組む数人の仲間ができ、情報交換したり、自分の成果を見てもらったり、徹夜で泊まり込んで勉強会をしたりしました。 まだ技術が未成熟な段階だったので、苦労した割には報われなかったかもしれませんが、この時ほどワクワクして楽しい経験をしたことは今に至るまでありません。

 ソフトウェアの時代だとわかりながらも、ハードウェアやCPUが違えば互換性のないソフトウェアに苦労しなければならない時代でしたが、 ムーアの法則や、IntelやMicrosoftの誕生、従来のアナログ技術にはない革新性などから、 「将来がこうした技術の発展上にあることは間違いない」と確信するようになりました。


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